むかつくってなんだろう

他人のむかついた話を聞いて好き放題相槌を打つ、というのをやっている方がいます。

そこに「むかつくとかそーゆー気持ちがないんです。ネタになりませんよね?」というメッセージが送られて来ました。

それに対し相槌の人(ズイショさん)はブログ内で以下のように言っています。

 むかつくのが難しいのであれば、むかつかなかった話を教えてください。それも十分面白いからね。むかつかない人にむかつかなかった話を聞いたら、たぶん、「それむかつかないんだwww」って話が飛び出すはずですから。それはきっと貴方の輪郭をよりハッキリとさせる面白話になるはずです。まーむかつくのしんどいしパワーも使うんでダルいんですけど、結局そういう効率度外視が、一番手堅い自己紹介になるんじゃねぇのと僕は割りと本気で思っています。

 この人のブログはこちら。→http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2014/03/08/010946

 

この方(ズイショさん)とは以前一度お会いしたのですが、本当に上記の様なスタンスを当たり前のように取る方で感動しました。

面白くないものを面白くするのは凄くエネルギーがいるのに、それがもう染み付いてるというか、無理してやってる感じがありませんでした。

念のためですが、私が面白くなかった訳ではありません。

 

 

それで表題の件ですが、毎日隙あらばむかついている私がむかつかないというのはどういうカラクリかを考えました。

私がむかつくタイミングとしては主に、自分が蔑ろにされた時なのかなと思います。

例えば駅のホームで乗車待ちの順番を抜かされたり、スーパーでレジにめちゃ並んでるのに一向に応援呼ばなかったり呼んだとしてもなぜか自分の後ろの人が優先されたり、職場でちょっと席を外して戻ったら自分の席に知らない人が座ってたり、道いっぱいに広がって歩いてる集団とすれ違う時に私は壁際っ際まで寄ったのにぶつかった挙句壁に服が擦れて肩の辺りが破れたり、お箸入れるって言ってたのに入ってなかったり、真冬にガス給湯器が壊れて生来苦手な公衆浴場に行かざるを得なくなったり。

 

と上記のように、やっぱりむかつくというのは自分の中にある「これはこうあるべきだ」という理屈に反した事に対する反応とも言えると思います。他にもあるでしょうが。

そしてむかつかないというのは、こうあるべきという感覚自体が薄いかそれに反する事があっても負の感情に直結しない思考になっている、のどちらかでしょうか。

後者ならもしかしてそれは理想的なのかもしれません。

そういえば私にも同じ出来事でも昨日はむかついたけれど今日は大丈夫、というパターンがあります。

そういう時は大抵、そんな事今はどうでもいいやと思うことでむかつきを回避しています。

しかしこれで回避出来るのは上記のような些細なむかつきで、例えば児童虐待や婦女暴行等のニュースを聞いた時の大きなむかつきは消えません。

むかつかない人はそういう世の中の理不尽に対してもむかつくという感情は無いのでしょうか。

もしかすると、悲しみは感じるけれど怒りは感じないという事かも知れません。

私の勝手な想像ですが、多分悲しみは解決や進展に繋がる事はあまり無く、その場から動く、動かすにはもしかすると怒りやむかつきの成分がある程度必要なのかなと思います。

しかしそれも含めて飲み込んだ末に「むかつく必要はない」と判断している可能性もありますので、それはひとつの理想的な到達点なのかも知れません。

とりあえず今はそう思っています。

 

ブログはツイッターと違って沢山書けるので言及不足で誤解を招いたりする事が無いのかなと思っていましたが、むしろ書けば書くほど隙を晒してる感じになり驚きました。

そして公開すれば最期、後戻りの出来ないような感じ。

また、書いている内に考えが変わってしまってそうなるともう最初から書き直したくなってしまったり。

考える訓練として使うという考え方もあるのでしょうか。

ズイショさんはある程度自分の中で芯となる部分が固まっているから自分のブログを読み返してもダメージは無いみたいな事を仰っていましたが、凄いなあ。沢山考えて来た人だというのが分かります。

 

あと、ブログに対する意見はブログでという考えがあるのは、会って話しましょうみたいな、フェアにやりましょうという事でもあるのかなと思いました。

 

なんにせよ、今日はここまでにします。